本論では、江國香織『デューク』における語り手「私」の語りと「語り手を超えるもの」とを読み重ねることで広がる読みとその意義について検討した。『デューク』は、語り手「私」の経験とその経験の意味とが構造的に語られているのみならず、結末の2文の描写により、それまでの「私」の語りは相対化され批評され、「語り手を超えるもの」の世界に開かれる。『デューク』は、そのような重厚なことばの仕組みを有した文学作品である。読者は、『デューク』を「語り」と「語り手を超えるもの」とから読み重ねることで、重層的な心のゆさぶりを経験できると考える。「語り」と「語り手を超えるもの」とを読み重ねる読み方は、『デューク』のみならず、『デューク』と同様に一人称の語り手が自己の経験を意味づけて語る他の文学作品を読む際にも適用できる。そうした読み方をすることで、より広がりある作品世界が読者に表象されることとなり、中学生・高校生が文学作品から得られる感動を増強する効果が期待できる。